東日本大震災による松原被災情報

白砂青松の高田松原−津波を防いだ海岸松林

この記事はグリーン・エージ2006年2月号に掲載したもので、陸前高田市立博物館館長(当時)本多文人氏が執筆されました。

はじめに

陸前高田市は岩手県東南部に位置し、岩手の湘南と呼ばれ、黒潮と親潮の交流する三陸の海と豊かな自然環境に恵まれた土地である。なかでも市のシンボルとも言える白砂青松の高田松原は、全長東西2km、松林の総面積21ha、最大林帯巾200mのアカマツ、クロマツ数万本からなるみごとな海岸林を形成している。

この海岸林は、その昔、砂塵が吹きすさぶ荒涼たる不毛の地であった所に、寛文七年(1667)にはじまる二人の先人の私財を投じてのマツの植林と、それに続く長い間にわたる人々の努力の成果として、今日まで維持継承されてきている。

現在、この市民の宝である高田松原を防災、観光、健康、自然保護の観点から市民、行政、関係機関が一体となって次世代に継承していくための努力を続けている。

1 先人たちの努力の賜物高田松原

高田松原は、先人たちの努力によって形成されたマツの人工林である。その昔、立神浜と呼ばれたこの土地は、潮風が絶えず砂塵を吹き上げ、背後地にある田畑に甚大な被害をもたらす不毛の地であった。寛文八年(1668)から延宝元年(1673)にかけて、地元高田村の豪商菅野杢之助が多額の私財を投じて、現在の高田町に属する砂浜にマツの植林を行い、その後も、その子孫が立神御林御山守として松林の保護育成に努めた。一方、享保年間に入ると今泉村松坂新右衛門が今泉側(気仙町)の田畑を守るために、私財を投じて、菅野杢之助同様、マツの植林を行った。こうした二人の先人の偉大な功績の上に、現在の高田松原があるといえる。毎年二人の先人に対する感謝祭が行われている。

菅野杢之助顕彰碑

菅野杢之助顕彰碑    

松坂新右衛門顕彰碑

松坂新右衛門顕彰碑


2 津波から郷土を守った高田松原

三陸海岸は,津波多発地帯で,貞観11年(869)以来歴史上記録に残されているだけでも数十回にものぼる。二人の先人達が植林して以降も多くの津波が来襲し、沿岸住民に多大な被害をもたらしたと同時に多くのマツも被害を受け枯れ死したことは言うまでも無い。現在の松は明治以降のものが多い。明治以降に記録されている津波の中で、特に知られているものは、次の通りである。

 

名 称 時 期
明治三陸大津波 明治29年6月15日
昭和8年三陸大津波 昭和 8年 3月 3日
昭和35年チリ地震津波 昭和35年5月24日

 

昭和35年(1960)のチリ地震津波は、筆者が唯一体験した大津波であり、眼前で繰り広げられた津波襲来のすごさは今でも記憶に新しい。昭和35年5月24日未明、前触れもなく(地震)来襲した津波は三陸沿岸地域に大被害をもたらした。昔から「地震があったら津波と思え」ということばを教訓として育ってきた市民にとって、まさに、「なぜ」という言葉を発せざるをえなかった。全体の被害状況については割愛するが、特に、高田松原の状況について述べることとする。

写真1は植林されていた松林のマツの根が津波によって洗われ、地表に現れている様子を示している。松林全体としては、その形を残していることに注目したい。つまり、松林が津波防災機能を十分果たしていたと言える。津波襲来後、多くの市民や高校生の手で、これらすべての松の保全作業が行われたことは勿論である。

一方、写真2は、松林の一部の地域ではあるが、みごとに寸断され、海水が、松林の背後地にある汽水湖である古川沼を通って、市街地に向かって侵入した様子がわかる。この場所は、旧気仙川河口といわれている所で、マツの植林が希薄になっており、砂浜と古川沼の間に湿地帯を形成していた所である。ここには、明治41年(1908)につくられた低い堤防のあったところであるが、300mのうち約200mにわたって寸断され深さ約10mともいわれる水路となって、海水が流入した所である。津波は、写真左手の方向に向かって進入したが、これは、市街地の前面に、鉄道とバイパス道路(現在のバイパス道路とは別)がつくられていたことが幸いし、これらが堤防の役割をはたし、直接市街地への侵入を弱めたのである。

この二つの例からも松林は、防災機能を十分果たすものであることが理解できる。

 

津波で根を洗われた松林

写真1 津波で根を洗われた松林

津波によって寸断された松原

写真2 津波によって寸断された松原


 

この津波を教訓として、昭和35年〜38年にかけて第一堤防、昭和38年〜41年にかけて第二堤防がつくられた。堤防構築の際、図に示したように、第一堤防は低く、松林の中間に高い第二堤防をつくったが、当時の築堤構想は、知ることはできないが、景観維持と防災機能に配慮しながら建設したものと思われる。このことから、今後とも、二つの堤防と松林全体を総合的に考えながら調和のとれた管理を継続していかなければならないと考える。

 

高田松原横断面図

高田松原横断面図

 

第一堤防

第 一 堤 防

第二堤防

第 二 堤 防


3 観光資源としての高田松原

白砂青松の高田松原は、石川啄木や高浜虚子が来遊し、この地に魅せられたともいわれている。句碑や歌碑があり、周辺は豊かな自然に恵まれ、松林とともに、背後に続く汽水湖古川沼と合わせて、多くの海岸植物や,鳥類などの絶好の生息地としても知られており、県内最大の海水浴場と併せて、この地を訪れる観光客は年間約100万人とも言われている。これらの景観が評価され、昭和のはじめから今日までに次のように名勝、景勝地とし指定・選定されている。

 

名    称 指定・選定年
日本百景 昭和 2年(1927)
国指定文化財(名勝) 昭和15年(1940)
都市公園 昭和33年(1958)
新日本百景 昭和33年(1958)
陸中海岸国立公園 昭和41年(1966)
日本名松百選 昭和58年(1983)
白砂青松百選 昭和62年(1987)
日本の都市公園百選 平成元年(1989)
日本の渚百選 平成 8年(1996)
海水浴客で賑わう高田松原

海水浴客で賑わう高田松原

石川啄木歌碑

高浜虚子 句碑

高浜虚子歌碑

石川啄木 歌碑

※編集追記:東日本大震災の津波で流失

4 市民の癒し・健康づくりの場、高田松原

高田松原は四季を通じて市民に親しまれ、市民の癒し・健康づくりの場となっている。真夏の松林を通り抜ける心地よい海からの涼風、目を楽しませてくれる砂浜や松林の中に成長するさまざまな海岸植物、木漏れ日を浴びながら歩行できるジョギングコース、松林の背後に広がる県内最大の汽水湖古川沼、すべてが仕事に疲れたひと時を過ごすにふさわしい場所であり、いつまでも健康でありたいと願う市民とっての健康づくりの場となっている。

このような時代の要望に沿う形で、昭和61年(1986)森林浴の森百選に、平成8年(1996)には海と緑の健康地域として指定・選定され其の名にふさわしい環境が着々と整備されつつある。

部分的ではあるが、第二堤防の片面には芝を植栽し、上面には、脚にやわらかいゴムチップ舗装をし、遊歩道として活用され、松林の中にも平坦なジョギングコースを設け,公園としての機能が充実し、朝夕ここを利用する市民は年々増加の一途をたどっている。高田松原の背後地には宿泊設備のある県立の海洋性野外活動センター、年間を通じて利用できる温水プールを要する海洋センター、野球場、サッカー場などがあり健康志向に対応した施設も整備され、多くの市民に利用されている。

 

松林を行く市民

松林を行く市民

整備された堤防上のジョギングコース

整備された堤防上のジョギングコース


5 市民の宝高田松原を次世代に

(1)現状と課題

高田松原のマツは、幼木から老木まで、更にはアカマツ、クロマツの入り混じった特異なマツの人工林であり、全国に誇れる白砂青松の素晴らしい景観として守っていかなければならない。しかし、高田松原は、次のような点が課題となっている。

1)第一堤防と第二堤防の間にある松林では、広葉樹の進入が若干見受けられるが、その都度、伐採により比較的純林としての景観が維持されている。一方、第二堤防の背後地(古川沼側)は海からの吹き込む強風の進入が堤防によって弱められており、広葉樹の進入しやすい環境となっており、絶えず人の手を加えなければ松林の衰退が心配される。

2)平成9年以降、ツチクラゲの発生があり、焚き火の禁止、土壌改良、虫害防除に力を入れ効果を上げてきた。その進入は時間の問題とされていたマツノザイセンチュウが平成13年高田松原においても枯損木の材片からはじめて検出され、関係機関が一丸となって、伐採、空中防除により、防除措置を講じているが、今後の拡大が危惧されている。/

3)一部地域(第二堤防背後地西側)であるが、枯損木、風倒木の発生が見られる。これは、元々、高田松原の松は、根が浅いことによるとの指摘があり、台風や、強風により、今後とも予想される被害である。

4)もともと背後の古川沼は,広田湾とつながる汽水湖であり、海水と淡水の交流する湖であった。昭和35年のチリ地震津波以後、一時閉鎖していたが、湖底に堆積した泥土の浚渫工事や周囲の環境整備に伴い、水門が開放され,汽水湖として回復し、最近は、鮭などの遡上もみられるようになった。このことにより、一部地域(古川沼側)では、潮の干満にともなう古川沼の水位の上昇により過湿度状態になることが多く、マツの生育に影響を及ぼすことが将来にわたって心配されている。

(2)次世代に引き継ぐために

市の市勢発展計画には、「健康で文化の薫る海浜・交流都市」の実現を目指し、健康・環境・創造をキーワドとしたまちづくりがすすめられている。その一つに「自然と共存する環境の創出」をかかげ、快適なくらし癒されるくらし環境にやさしいくらしの三項目を実現すべく、戦略プロジェクトとして「健康院構想」を立ち上げ、高田松原も都市公園の整備の一環として自然環境の保全・調和を図りながら、海洋レクリエーション拠点、市民の憩いの場、健康づくりのフイールドとしての公園機能の整備を進めている。これは、松林あっての構想であり、マツの保護育成が基本であることを忘れてはならないことは勿論のことである。

 

平成14年小学生による植栽活動

平成14年小学生による植栽活動

 

その展開に当たっては、日本緑化センター「日本列島マツ回廊構想―日本の松原再生運動」に提唱されている三つの資源価値(環境資源・観光資源・健康資源)を市民、行政、関係機関が一体となって共有し、それを実践していく必要がある。この構想の実現に大いに期待するものがある。幸い、本市においても、この構想にあわせるがごとく、現在展開されつつあることは、よろこばしいことである。また、松原の歴史の証を残すことや珍しい海岸植物の生育環境の保全を目的に広葉樹を含む林の一部を人の手を加えず自然保護区として保存し、長いスパンで自然の推移を見守ることも、自然の理にかなったものと考えられる。各地での取り組みの成果に学びながら、調和の取れた取り組みをしていく必要がある。現在、関係機関が一丸となって虫害の防除、予防活動を展開するとともに、小中学生による高田松原についての学習活動、そして、実践活動としての松の植栽活動を積極的に展開し、青少年への継承活動をスタートさせたところである。

長い間、市民運動として、「古川沼をきれいにする会」が中心となり環境整備活動を展開し成果を上げてきたが、近いうちに「高田松原を守る会」の結成の動きがあるとのこと等、特にマツ林の保全を目的に市民ボランテアによる活動が芽生えつつあり、今後の発展が期待されるところである。

引用文献

1)陸前高田市史 巻八 治安・戦役・災害・厚生編

2)近田正文他編「沼津市千本松原海岸林の動態」−千本松原海岸の保全− 

  自然環境科学研究 Vol.10,p.17-30(1997)

3)森林浴の森全国協議会・陸前高田市 松林を考える市民フォーラム(2002)

4)陸前高田ロータリークラブ−高田松原を守ろう−(2005)

5)村井宏「日本の海岸林」(村井宏編) (1992) ソフトサイエンス

 

今回の津波により、陸前高田市立博物館は総ての収蔵品が被災し、博物館で働いていた方は全員が津波の犠牲になりました。現在は博物館から運び出された標本などの収蔵品を、全国の博物館の学芸員らが手分けして修復にあたっています。前館長本多さんは現役復帰して第一線で頑張っておられます。

犠牲になられた方々のご冥福をお祈りするとともに、一日も早い復興をお祈り申し上げます。

 

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