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青森県
 屏風山防風林(国有・官地民木保安林)

所在地
防風林位置図
位置図
拡大図(PDF584KB)(PNG2MB
※PNGは画像。地名が判読できます
 
  青森県西津軽郡水元村、森田村、越水村、鳴澤村、舘岡村、車力村
沿革
 青森県西津軽郡は往昔岩木川の氾濫区域として、満目蕭條※1人煙またまれな広野盧葦逢生の地であったが、天和 2(1682)年津軽中興の英主信政公深く更正利用に意を注ぎ、鋭意地方の開発に努め、役人を督し大いに土工を起こし、淵堤を疎通して盧葦を伐りいばらを披いて開墾を激励したが、いかんせん地表裸出していて草生発育しがたく、一度西海潮風砂礫を巻き、岩木山の嶽颪(たけおろし)生草を掃へば、青田もまたすなわち枯死するを以って容易にその成功を見なかった。
 於是百方憂慮し、先ず岩木山下の丘陵及び西方海岸一帯の砂丘に樹木を植え、森林造成を計画して後方原野を援護し、以って風潮を防御する計画を立て、植樹に巧みなるもの数名を用い、人夫を役して樹林の増殖を図り、次第に墾田を進めた結果、ついに渺茫※2たる不毛の地も良田に化し、その樹木能(よ)く潮風飛砂を防止する事は、あたかも屏風を立廻した様である所から、屏風山の稱(となえ・たたえ)が起こったのである。それ以来、貞享、元禄の文化絢爛、事業勃興の機運と太平の余澤社会裕福の余力とを活用し、寛永の頃(1624-44)には開拓田畑300町歩余となった。
 こうして30−80年の間、免租地であったが、元文元(1736)年藩庁初めて丈量(測量)を行い、平年収穫の幾分を貢祖と定めたけれども、それも極めて薄税にとどまったといわれる。世に「元文の竿入」と称するものは之である。 然るに天明4(1784)年並びに天明6年の大凶作にあたり、住民争ってこの林の樹林を伐採販売して食に換え、わずかに流離●●の苦を免れた。この濫伐の結果は新田地方の田んぼに著しき被害を及ぼし、ほとんど再び荒蕪(こうぶ)に帰せむとしたので、藩庁は早くも善後策を講じ、森林の回復を図ったため、ようやく舊観(きゅうかん)に復し、天保11(1840)年、更に50余の村落、耕地2,000町歩余の開墾を見、嘉永6(1853)年には更に400町歩を開墾したのである。 更に安政2(1855)年の奉行後藤門之丞は、舘岡の住人野呂武左衛門外一人に命じ、補植事業(168万株余植栽したという)を●●遂行せしめた。今日の新仕立山がこれである。
 前述、天和2(1682)年創設以来藩政より明治7年まで、この山の庇護恩沢をこうむるものによって補植事業が行われてきた。然るに明治9年林政の変革調査に際し、地元各村短見利己の徒は争って目前の小利害を計較し、永遠の自衛策を閑却(かんきゃく:いいかげんにする、の意)して田山(水源涵養林)同様に多年禁伐林として保全してきた名称を廃して、いわゆる仕立見継※3山武植林と称する官地民木の意見を主張するを有利なりとして、自ら取締りを弛緩し濫伐をさかんに行った結果、関係地方は再び荒廃せんとした。そこで木造地方66ヶ村耕地のため、これが保全増殖を図る目的で、明治13年関係地方の有志者原田豊太郎、市田理平、渋谷直喬、乳井楽東等66ヶ村戸長総代小山内忠左衛門、黒瀧仙吾、鳴海廉之助、北澤吉郎左衛門等と連署、屏風山保護繁殖取締規約案を具して屏風山無料拝借を請願した。この間林政所管の変更、もしくは樹木の所属に対する未決定により未解決になっていたが、その後地方庁に管轄せらるるに及んで、明治20年屏風山保護繁殖規定を添付し、上記規定を確守する条件で屏風山無料拝借方の出願があったが、明治22年に許可せられた。その後明治32年大林区署の管理に移り、同年保安林に編入せられ、明治41年森林法改正の結果、官地民木林は再び植伐共に地方庁の管轄に復し、今日に及んでいる。
 ※ 1満目蕭條(まんもくしょうじょう) あたり一面肌寒く、寂しさを感じる様子
 ※ 2渺茫(びょうぼう) 果てしなく広いさま
 ※3仕立見継(したてみつぎ) 村や個人が藩に願い出て植林し、成木になった後、伐採した材木の利用が許可されるしくみ。森林保護の義務。

屏風山防風林

屏風山防風林
赤松を主木林とし、カシワ、ナラ、ブナ等の広葉樹を混交す。延長40km、幅員4km、面積4.1ha、風潮飛砂を防ぎ、14ヶ町村にわたり人家8,700余戸、耕地10,600ha 余を保護し、効果偉大である。


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